火曜日

新しさの発見

 20歳の友人が一眼レフのカメラを買った。50ミリ・レンズ付きの中古品で、価格は1万円。もちろんアナログのカメラを手にするのは初めてで、それどころか「一眼」の意味も「レフ」の意味もわからないという。つまり写真になど興味がなかったわけで、それなのになぜ古いカメラを選んだのかと尋ねたら、「デジカメが急にムカついてきたから」とのことだった。
 便利すぎて何をしているのか実感が沸かないのが厭だし、苦労がないので後でパソコンで見たり編集したりすることも却って疎かになってくるし、何よりも「デジカメしか使えない自分が厭だ」とも彼は言った。

「実は僕の通う大学に、古いカメラで花とか草とかを撮ってる女子学生がいるんですよ。それを見ていたら格好いいなあ、おれは駄目だなあと思ったんです」
 僕は知らなかったのだが、大学生くらいの女の子のあいだでは、アナログのカメラがひそかに流行っているのだという。なかにはネオパン(モノクロ専用フィルム)にこだわるような人もいて、スクラップ・ブックに思い思いのデザインを施して貼っては、余白に文字を書きこんだりするそうだ。デジカメとブログが全盛のこの時代に、似たようなことをまったく逆の方法でやっているということだ。

 均一化された社会(と自分たち)に息苦しさを感じて、違う扉を開いて新鮮な空気を吸うために過去を参照していると言ったら、少し大袈裟だろうか。しかしデジタルの隆盛が彼らを思考停止の方向へ導くのではなく、逆にアナログ的なものに目を向かわせるきっかけになっていることだけは、確かなようだ。ちょっとしたメモでも電子ペンで書きたがるおじさんに比べれば、彼らの方がはるかに健全だし、何よりもそのシフトぶりが自然で軽やかなのがいい。何の予備知識もないのに「よし、カメラ買おう」と思い立つところが素晴らしいし、それは正解だ。

 おそらく彼らは、自分のなかにある野生を呼び起こしてみたいのだと思う。便利なデジタル機器も生活のなかで必需品だけれど、体のなかにある何かがそれでは物足りないと訴えていることに、気がついているのだ。たとえばカメラを手にした彼は、自分の目で集中してものを見るという行為に「見ることの意味」を能動的に発見するだろうし、それはやがて「太陽の位置と光線の角度」を気にするという次元にまで高まるはずだ。
 便利さを捨てたことと引き替えに、自分の行動がもたらす責任にも気がつくことになるだろう。デジカメでは許された失敗も、一眼レフでは許されない。何をどう撮るか、焦点をきちんと合わせられるのか、手ぶれを起こさないためにはいかに集中力が必要か、そのような基本的な責任を引き受けないことには、現像代やプリント代へ具体的に反映してしまう。自分で行動を起こした途端、何ごともお座なりにはできないということに、彼は新鮮な手応えを感じ取ることになるのだ。

 僕自身は特にデジタル機器に嫌悪感を抱いてはいないけれど、機械を操作するときのインターフェースにおいて、自分の感覚や身体性が参加する度合いは、やはりアナログ機器の方がはるかに高い。自分の腕を上げてくれるカメラや自動車は確かに存在するし、機械を操作するときに伴うフィードバックは、使い手の感覚をひろげてくれることもある。そしてこのときに肝要なのは、機械との会話の中に見出したものを自分なりに活かせるかどうかだ。

 20歳の彼から、まだ作品を見せてもらってはいない。スクーターに乗って江ノ島へ行き、そのときにロールを2本使ったそうだが、「あまりの下手さに愕然として」、とても人まえに出せる段階ではないようだ。
 下手だということ……つまりものを見ているようでいて、実は漠然としか見ていなかったことに気づいたのだから、カメラを買ったことはまずは収穫だと言うべきだろう。自信を持って見せてくれるようになったとき、彼がどのようなものの見方をする人なのかを写真に発見することを、僕はいまから楽しみにしている。


先見日記 - 2006/11/14